原発事故対応の日米差

東日本大震災原発事故からもうすぐ一年になるが、ここにきて福島原発事故発生当初における日本とアメリカの危機管理や認識についての違いが次第に明らかになってきた。日本では震災による大災害が発生し、その対応と同時進行での対応を迫られていた事情はあるにせよ、緊急の事故対策に決定的に重要であった原子力対策本部会議の議事録がなにも残されていたことが明らかになり、また巨額投じたSPEEDIのデータは、1カ月以上後になって発表されるなどさまざまな不手際(あるいは意図的)の極みであった。一方、米国は基地施設や自国民の防災が直接的にあったとはいえ、福島原発事故の重大性を素早く見抜き、詳細に分析検討し、半径80㎞以内に避難勧告を発した。日本では米国のこの処置に過剰反応とする見方が大勢であり、国民は事の重大性をよく知らされていなかった。結果的には広範な放射能汚染とメルトダウンに至るレベル7の最悪事故となった。善意に解釈すれば国民をパニックにさせないための意図的な情報操作とも受け取れるが、ここに至って政府は事故の深刻さを認識せず、もしくは極力隠蔽したとしか言いようのない対応であるったことが明らかとなった。確かに不必要な不安感を煽ることは避けなければならないが、実情は深刻極まりないものであったことは事実でった。ベントや水素爆発などがあった事故後数日間、もし持続的に海側からの風が吹きこんでいたならば東日本一帯は毎時1μSVを超える濃厚汚染地域となり、大混乱に陥っていたのである。巨大津波は最悪であっが、風は一時的に内陸部に吹き込んだものの幸い西寄りの風が吹き、放出された放射能の大部分を太平洋上に吹き流してくれた。アメリカはスリーマイル事故を経験し、そこから多くの教訓を得たことは確かであろうが、日本でも実験炉もんじゅの事故やJCOの事故、またスリーマイルやチェルノブイリ事故などを通して直接、間接に原子力事故に備える危機管理を国家レベルで取り組む機会はあったにもかかわらずおろそかにしてきた。電力会社にとってつごうのいいコスト・利益追求、建設地への利益誘導に幻惑され、いつの間にか54基もの原発大国になっていながら、原子炉の安全運転(事故処理も含めて)についていわゆる安全神話のもとに余りにも軽視されてきた。廃棄物の最終処理をあいまいにしたまま、ストレステストや電力不足を口述に再稼働の動きに歩み始めていることは大きな禍根を残すことになりはしないか。